あれから
あれから24年
建築業界にとっても、大きな転換点となった阪神淡路大震災の日です。
当時、私は大阪の豊中で震度5を経験しました。
幸い、当時住んでいたマンションには大きな被害がありませんでしたが
私は、その前日までスキー旅行に行っており、帰ってきた朝、そろそろ起床の時間でした。
いきなりの轟音と共に暫く続く揺れ、何が起こっているのか全く理解できないままでした。
揺れている間、マンションの他の部屋では、おそらく食器が落ちて割れているであろう音が響いており
揺れが収まるとともに、他の部屋の住人の方が数人、部屋の外に出てきました。
普段、全く顔を合わせることの無い人達と、初めて話をしました。
「大事にしていた食器が台無しになった」と語る方など、寒い朝でした。
私は思わず部屋に干してあったスキーウェアをそのまま着て、外に出ていたのですが、
暫くすると、電気も灯るようになり皆それぞれに、自分の部屋に戻っていきました。
テレビも直ぐに点いたと思いますが、はっきり記憶していません。
兎に角、会社に行かなければとは思ったのですが、当然電車もストップしてしまい、当時買ったばかりの車で会社に向かった記憶があります。
当時は工事中の現場が各所にあり、先ずはそれぞれの担当する現場へ確認に向かったはずです。
しかし、交通網がほぼ全面的にストップしてしまったため、出社できる所員にも限りがありましたので、出社できる所員で手分けして確認に回ったと思います。
各現場の無事が確認出来、その日は仕事にもならないため早目に帰宅したと思うのですが、安否の無事を実家に連絡するための手段は電話しかなかったはずで、確か公衆電話から連絡をとったと思います。
当時は、未だごく一部の人しか携帯電話を持っていなかったのです。
その後、通勤路線の電車も開通しましたが、一駅隣の駅前の建物には大きな被害の跡が見られましたし、神戸方面へ向かう電車の中からは1階が倒壊して、まるっきり無くなったマンションの光景なども、今でも忘れられません。
そして、何よりこの震災の被害報告などが明るみになるにつれ、私の建築感が木造に傾き始めたことは明らかです。この4年後には、木造に向き合うために前事務所を退職したのですから・・・。
被害に遭われた多くの方々のご冥福をお祈り致します。